見たもの、聞いたものの記録、その感想
しんとした気持ちで、じっくり読むこと
今日、吉田瀬七は図書館へ行く。
小説も好きだが、画集や絵本も好きだ。そういったものは大抵図書館から借りて読む。自分でも何冊か持っているものがある。絵の参考にする、というのも勿論だが、単純に好きなのだ。
宮沢賢治原作の絵本といわさきちひろの絵本を借りる。宮沢賢治の童話の中では「やまなし」と「貝の火」が好きだ。
特に「貝の火」は動物たちが主人公でありながら、人間の傲慢さを「恐ろしい」と感じるほど生々しく表しているようである。読み終えた後の虚しさを、さて何と表現しようか。
対して「やまなし」は緩やかな文調で進む、優しく包み込んでくれるような童話だと思う。「クラムボンはわらったよ。」はつい呟きたくなるような可愛らしい語調だと感じる。一方で弱肉強食で成り立つ自然界の残酷さもくっきりと描かれている。水の中から見つめる風景が美しいと感じるほど、それが際立つようだ。
しんとした気持ちで、じっくり読もうか。
作品に宿る「力」のこと
「魂を込めて」とか「命が宿っているような」とか「命を削って」とか言うが、実際にそういうことはあるのだろう。優れている、と単純に表現していいかは分からないが、ドキリとさせられる作品には、ある種の「生命感」が宿っていると思うのだ。
それは、鮮やかに美しく、時に毒々しく、迫ってくるなような力を持って「存在」を訴えかけてくる。
ふと、そんなことを思った吉田瀬七の一日。
愛犬の目のこと
実家の愛犬の顔を見て、もっとも印象に残るのは、やはりその目だろうと、吉田瀬七は思う。
グッと力を込めて睨みつけてくるようだ。人間のように口を利かない分、表情の豊かな目である。見つめられると、何か訴えられていると感じる。だから、愛犬を描くときは、目の描き方に特に力を込めたいと思う。
寝起きの愛犬のこと
今日も愛犬を描いてみた。
昨日とまるで違う表情だが、これは寝起きの顔である。どろんとして、気が抜けている。目が冴えてくると、黒目の部分が大きく見えるようになるから不思議である。明日はもう少し愛らしい表情の愛犬を描いてみたい。
愛犬を描いてみたこと
愛犬を描いてみる。
実際よりは面長の印象になった気がする。目に何となく憂いを感じるが、多分何も考えていない。昔より毛に白いものが増えた。歳を取ったのだ。横たわると胴が長いことが分かる。
明日も愛犬をモデルに描いてみようと思う。
愛犬と過ごす日々のこと
家族がいなくなって愛犬と一人と一匹で残される。愛犬が足元に纏わりついてくる。午前中、吉田瀬七が散歩に連れて行ってくれることを分かっている顔である。仕方ないので連れて行く。外は随分と暑い。道には露草が咲いている。小さいが、目の覚めるような青だった。
散歩から帰った愛犬は、ニタニタと、まるで人間が笑うような顔である。用は済んだとばかりに吉田瀬七から離れて涼しい場所で寝そべっている。良い気なものである。うまい具合に吉田瀬七を使ってやっているつもりである。仕方ないから吉田瀬七も使われてやろうかと思う。
餌の時間になるとまた愛犬がソワソワし出す。餌をもらっても、まだ貰うつもりでソワソワしていた。昔からである。貰えないと分かるとお気に入りの涼しい場所でグゥグゥ寝る。そういう犬である。
毎日続けていること
朝起きて、10分間のクロッキーをする。
この習慣が始まったきっかけは、デッサンの練習をした方が良いと言われたこと。そのときは、あまりデッサンの重要性を感じなかったが、動画で、マティスという人が何回も作品を描き直しているということを知って、改めて基本を身につけようと思った。マティスという人は「絵の方からやってくる」と語っていたようである。何となく分かる気がする。マティスという人は、色彩感覚のセンスに優れた人だったらしいが、構図についても熱心に研究していた人らしい。
良い努力は、重ねた分だけ身につくものだと信じたい。しかし、身についた分だけ捨てなければならないものもあるのではないかと、今、ふと思った。
珍しいものを見る目の愛犬のこと
久しぶりに会った愛犬が、珍しいものを見る目で吉田瀬七を見る。
愛犬は、もうだいぶ歳をとっている。会うたびに痩せたような気がするが、割と食欲もあり、元気である。気に入らないことがあると噛みついてくる。容易には「悪かった」と思わないらしい。生意気である。居心地の良い場所を見つけてはぐっすりと眠る。深く、長い眠りである。寝ぼけた顔はドロンとしている。
珍しいものを見る目で吉田瀬七を見た愛犬の様子は、吉田瀬七を歓迎しているように見えなくもない。見えなくもないが、すぐに眠った。気楽である。それとも、犬にしか分からない苦労に疲れているのだろうか。
オスカー・ワイルドとビアズリーのこと
今日、ビアズリーについて紹介している動画を見た。ビアズリーといえば、オスカー・ワイルドの「サロメ」の挿絵を描いた人物である。「本文が挿絵の添え物になった」と言われたほど、強烈な力を持った画家だったが、その栄光の時は短く、病のため若くしてこの世を去った。
吉田瀬七は「サロメ」を読んだことはないが中学校時代に授業の一環としてオペラの最後のシーンだけ見た。サロメとは女性の名前で、踊りの褒美に自分の恋した相手の首を欲する。なかなか狂気じみている。ビアズリーの描いたサロメも、絵によって違いはあるが、よく神話や聖書に登場する女性のように美しくは描かれていない。却って、迫るようなおどろおどろしさがある。
オスカー・ワイルドは、ビアズリーがファンアートとして描いた「サロメ」に惚れ込んで、自ら「サロメ」の挿絵を描く画家としてビアズリーを推したという。オスカー・ワイルド自身の期待が大きかっただけに、ビアズリーの描いた挿絵を見て悪い意味で呆然としたのではないか。何故と言って、ビアズリーは、オスカー・ワイルドの期待した道を外した挿絵を好き勝手に描きまくったからである。
今度「サロメ」の戯曲を読んでみようか。文章を読みながら、オスカー・ワイルドがビアズリーの挿絵にもっとも大きな期待を寄せていたという「七つのヴェールの踊り」とやらを想像してみたい。
雨は降っていないが、何となく湿っている日のこと
今日は疲れているようである。雨は降っていないが、何となく湿っている日である。
F50の作品は順調に進んでいる。加筆すればした分だけ、作品が良くなっていくようで嬉しい。偶に、余計な場所に余計な色を乗せてしまうことで作品が悪くなってしまうこともあるから、自分で「良くなった」と思うときは本当に「良くなった」ように思われる。
今回のF50の作品は今までにない表現に挑戦しているつもりではあるが、落ち着いた目で見ると、やはり「吉田瀬七」の特徴が強い。これはこれで良いことだと、とりあえず今は受け止めておく。
そういう季節のこと
今日は激しい雨が降っている。これでも、朝は晴れていて、良い気分だった。
頭から重く、どんよりしたもので押さえつけられているようだ。こういう日は、とにかく眠い。爽やかな眠りではなく、憂鬱な眠りに誘われる。何かしたいとは思わないが、ご飯だけは食べなければならない。夏になると、吉田瀬七はやつれが目立つ体質である。とりあえず、三食を食べていればマシである。
天気予報を見ると、まだ暫くは下り坂の天気が続きそうである。仕方ない。そういう季節なのだろう。とりあえず、ご飯を食べて、ダラダラしようか。
夜を描くこと
夜を描いてみる。
黒い絵の具だけで空を描くと重すぎる。青も混ぜてみる。星は黄色いというよりは青白く表現してみる。吉田瀬七の夜は、何となく青みを帯びているようだ。
夜は暗いものとは思わない。昼間は見えない星が輝く。月が光る日もある。薄い膜に肌が覆われるようで、ユラユラと落ち着く。
だから人は、夜に眠るのだろう。
個展に向けてのこと
試行錯誤を進める。
色で遊んでみようか。形で語ってみようか。
前回の個展では「詩人」と言われたことが何となく悔しかった。言葉は好きだが吉田瀬七は「画家」でいたい。
考えることは苦手だが、テーマの一つでも決めようか。壮大なテーマでなくてもいい。使う色も固定してみようか。
個展は秋と冬に行う。まだまだ先だと思っているとあっという間にやって来る。油断大敵。