見たもの、聞いたものの記録、その感想
正面から見た愛犬の表情のこと
久しぶりに正面から見た愛犬の表情である。
目が大きくて耳の毛がうねっている。姿だけなら気品に満ちていて賢そうだと言われる。実際には隙を見せると悪戯ばかりする犬である。
愛犬のこの頃のお気に入りの場所は和室の入り口の前。和室が一番涼しいので、そこが一番過ごしやすいらしい。今もその場所でぐぅぐぅ寝ている。
毎日描く愛犬の表情のこと
毎日描く愛犬の表情は毎日変わる。
愛犬の表情も毎日変わるが、愛犬を描く吉田瀬七の心持ちも毎日変わる。
今日描いた愛犬の表情は母から「可愛い」と感想を言われた。
実際は、もっと貫禄のある表情をしている愛犬である。
久しぶりの電話のこと
久しぶりに祖母に電話した。
声を聞くと、元気そうで安心する。背後ではひ孫たちがケンカをしているらしい賑やかな声が聞こえてきた。若いエネルギーから、良い刺激を受けて欲しい。
目で訴えてくること
我が家の愛犬は目で訴えてくる。
勿論、人間とは違うので、なにをしてくれ、かにをしてくれ、と言葉で訴えることはないのだがその目は口よりも饒舌で、かつしつこい。時には日に何回でもご飯や散歩をねだってくるようであるが、勘弁して欲しい。
しかし、愛犬には人間の言葉が通じないので、ひたすら目で訴えかけてくるのだ。時々、吠える。
いつもの朝のこと
今日も愛犬のスケッチをする。
朝、愛犬は父に散歩に連れて行ってもらう。その後、ゲージの中に引っ込んで眠る。ご飯の時間になるとのこのこ出てきて、こちらをじっと見る。ご飯の催促をしているらしい。人がバタバタしていても平気で寝ているような愛犬だが腹時計は正確らしい。
他人に作品を見てもらうこと
新しい作品を人に見せるときはいつも緊張する。見て欲しい、そして出来れば褒めて欲しいから見せるのだが
「もっと良くできたはずだ」
という気持ちが必ずついてくる。
他人からの評価が気になるのは臆病だが、他人に作品を見せるのは勇気だと、吉田瀬七は勝手に思うことにする。
「わんちゃんだー!」のこと
今日、愛犬の散歩をしていたら近所の子どもが愛犬を指差して「わんちゃんだー!」とはしゃいだ声を上げる。何と答えれば良いのか吉田瀬七には分からず、子ども相手に無愛想に手を振ることしか出来なかった。子どもは吉田瀬七と愛犬が角を曲がるまで「わんちゃんだー!」と繰り返す。自分も小さい頃があったはずなのに、その頃の気持ちを忘れているのが不思議である。
しんとした気持ちで、じっくり読むこと
今日、吉田瀬七は図書館へ行く。
小説も好きだが、画集や絵本も好きだ。そういったものは大抵図書館から借りて読む。自分でも何冊か持っているものがある。絵の参考にする、というのも勿論だが、単純に好きなのだ。
宮沢賢治原作の絵本といわさきちひろの絵本を借りる。宮沢賢治の童話の中では「やまなし」と「貝の火」が好きだ。
特に「貝の火」は動物たちが主人公でありながら、人間の傲慢さを「恐ろしい」と感じるほど生々しく表しているようである。読み終えた後の虚しさを、さて何と表現しようか。
対して「やまなし」は緩やかな文調で進む、優しく包み込んでくれるような童話だと思う。「クラムボンはわらったよ。」はつい呟きたくなるような可愛らしい語調だと感じる。一方で弱肉強食で成り立つ自然界の残酷さもくっきりと描かれている。水の中から見つめる風景が美しいと感じるほど、それが際立つようだ。
しんとした気持ちで、じっくり読もうか。
作品に宿る「力」のこと
「魂を込めて」とか「命が宿っているような」とか「命を削って」とか言うが、実際にそういうことはあるのだろう。優れている、と単純に表現していいかは分からないが、ドキリとさせられる作品には、ある種の「生命感」が宿っていると思うのだ。
それは、鮮やかに美しく、時に毒々しく、迫ってくるなような力を持って「存在」を訴えかけてくる。
ふと、そんなことを思った吉田瀬七の一日。
愛犬の目のこと
実家の愛犬の顔を見て、もっとも印象に残るのは、やはりその目だろうと、吉田瀬七は思う。
グッと力を込めて睨みつけてくるようだ。人間のように口を利かない分、表情の豊かな目である。見つめられると、何か訴えられていると感じる。だから、愛犬を描くときは、目の描き方に特に力を込めたいと思う。
寝起きの愛犬のこと
今日も愛犬を描いてみた。
昨日とまるで違う表情だが、これは寝起きの顔である。どろんとして、気が抜けている。目が冴えてくると、黒目の部分が大きく見えるようになるから不思議である。明日はもう少し愛らしい表情の愛犬を描いてみたい。
愛犬を描いてみたこと
愛犬を描いてみる。
実際よりは面長の印象になった気がする。目に何となく憂いを感じるが、多分何も考えていない。昔より毛に白いものが増えた。歳を取ったのだ。横たわると胴が長いことが分かる。
明日も愛犬をモデルに描いてみようと思う。
愛犬と過ごす日々のこと
家族がいなくなって愛犬と一人と一匹で残される。愛犬が足元に纏わりついてくる。午前中、吉田瀬七が散歩に連れて行ってくれることを分かっている顔である。仕方ないので連れて行く。外は随分と暑い。道には露草が咲いている。小さいが、目の覚めるような青だった。
散歩から帰った愛犬は、ニタニタと、まるで人間が笑うような顔である。用は済んだとばかりに吉田瀬七から離れて涼しい場所で寝そべっている。良い気なものである。うまい具合に吉田瀬七を使ってやっているつもりである。仕方ないから吉田瀬七も使われてやろうかと思う。
餌の時間になるとまた愛犬がソワソワし出す。餌をもらっても、まだ貰うつもりでソワソワしていた。昔からである。貰えないと分かるとお気に入りの涼しい場所でグゥグゥ寝る。そういう犬である。
毎日続けていること
朝起きて、10分間のクロッキーをする。
この習慣が始まったきっかけは、デッサンの練習をした方が良いと言われたこと。そのときは、あまりデッサンの重要性を感じなかったが、動画で、マティスという人が何回も作品を描き直しているということを知って、改めて基本を身につけようと思った。マティスという人は「絵の方からやってくる」と語っていたようである。何となく分かる気がする。マティスという人は、色彩感覚のセンスに優れた人だったらしいが、構図についても熱心に研究していた人らしい。
良い努力は、重ねた分だけ身につくものだと信じたい。しかし、身についた分だけ捨てなければならないものもあるのではないかと、今、ふと思った。