見たもの、聞いたものの記録、その感想
伝えること
琴線に引っかかった作品
私にとってそれは、男の生首を持って宙に浮かぶ黒髪の妖女である
命を探して、自分の生きていることを叫んでいる痛々しいほどの黄色である
その柔らかさが伝わってくるような、子どもの頰である
それらを、ただ「好き」だと思っていた
単純に
けれど「好き」は私が思っているほど単純に伝えていい言葉ではないかもしれない
「無関心」になった自分に気づいたとき、悲しいから
だから今は「良い」と言っている
幾千もの宝石のこと
口も利いたことがない、
向こうは私のことを何も知らない、
つまり、私が勝手に尊敬している人なのだが、
その人がある日本の画家について「幾千もの宝石をぶちまけた人」という表現をしたのである。
「宝石」という言葉には色々な言葉が当てはめられそうだ。
「才能」「運」「愛」……
その画家の持っていた「宝石」は
「才能」だった。
「文学」と「美術」。
吉田瀬七は、「幾千もの宝石」を持たない。
握らされた「石ころ」をせっせと磨いている。
この頃では
「悪くない輝きをするようになったじゃないか」と言ってみたい。
「石ころ」を磨くには、捨てなければならない「石ころ」もあるだろう。
それが、ほんの少し寂しい。
カフェにて人を待つこと
昨日、和服を着て出掛けて、その疲れがまだ残っているようにも感じる体を、引きずり、引きずり、近くのカフェへ行く。そこで待ち合わせをする。近く、といっても自宅からバスと徒歩で一時間くらいかかるのである。
今日は少し暑いようだ。座っていると、座面と接している腿の裏にじわじわと汗をかく。カフェにはイラストが展示されていて、何となく、ホッと和むようだ。
「かくらこう」という人の物語を読む。ビスケットの裏に物語が書いている。下書きをせずに淡い色で描かれたような夢を感じる。好きだ、と思う物語もあった。
ランチを食べた後、谷崎潤一郎の「卍」を読みながら、人を待つ。だいぶ前に読んで、それきり再読しようとも思わなかったが、ふっと谷崎潤一郎の書く大阪弁に触れたくなって読み始める。柔らかい語り口調である。
カフェの店内の柱には、私の絵が二点飾られている。
待ち人は午後二時頃に来る。
個展を終えてのこと
仙台のカフェでの個展が終わる。
こういう書き方は、まるで仙台以外でも個展をしたことがあるようだ、とも取られるかもしれないが実際のところ、仙台以外で個展をしたことはない。
無名の人の中にも立派な人は沢山いるが、吉田瀬七は立派な人に見つけてもらいたいと考えている人物である。その為に、まず故郷に近いところで有名になりたい。しかし、それにはまだ自信が足りない。
今回の個展で、吉田瀬七はまた一つ経験を積んだ。前に進んだかどうかはよく分からないが、とにかく経験を積んだ。今はそれが重要だと考える。
こういう絵もたまには描きたい、ということ
自分の作品を描くときは、できるだけ強い色を出すように心がけているが、優しい、淡いタッチの色合いの絵も好きだ。
人間と会話するのは難しいが、人間を描くのもなかなか嫌いではない。
今回、夜中に思いついてサラサラと描いてみた。川端康成の「古都」に出てくる千重子のイメージである。
べんがら格子が隔てた、姉妹の運命が切ない。
読書のこと
久しぶりに読書でもしようか、と思う。
月に二、三冊は読む習慣を持っていたが、今月はまだ一冊も読んでいない。しかし、立東舎の「乙女の本棚」シリーズはお気に入りで、よく読む。この頃は、ホノジロトヲジ氏がイラストを書き下ろした泉鏡花の「外科室」を読んだ。儚く光るような幻想的なイラストが、泉鏡花の書いた物語の中へ誘い込むようだった。芯に灯が灯っているような蝋に似た手で。
川端康成の文章も掴みどころがない色気があって好きだ。色気、というと笑われそうだが、美しい、という言葉よりは、色気、という言葉を使いたい。いやらしい、のではなく、哀しい。透明な哀しさだ。
川端康成の文章に触れようか。有名なのは「雪国」だが「古都」も好きだ。「古都」を読もうか。川端康成の文章で、セピア色の「古都」を読もうか。
「今日の日記」のこと
久しぶりに納得ができる絵を描くことが出来て嬉しい。
タイトルは「今日の日記」。
背景はオレンジと青と黄の絵の具でドロッピングをする。何となく、夜の雰囲気を感じる。その上から、ペンで模様を描く。みっしりと描き過ぎないように注意する。
手前には葉のついていない木を背景と同じ色を使って描く。近所の公園にある木。写真を撮って小さなノートに繰り返しスケッチをした。もちろん、実際の色とは違うのだがとても良い印象になった。
今後も色を生かした作品制作を頑張る。
気持ちを忘れないこと
先日、知人のアーティストの方が個展を開催しているというので、観に行ったのだ。刺すような明るい色調に「あっ」と驚かされた。
作品制作について、色々とお話を伺った。そこから感じたことは
「良い作品を作る人は研究熱心で努力家」
ということ。
吉田瀬七は、自分が「悪い作品」を作っているとは思わない。技術と表現力向上の努力も続けていると思っている。
しかし、どこか傲慢なところはなかったか。「描きたい」「観て欲しい」ばかりを優先して「どうしたら良い作品を描けるか」「どうしたら観てもらえるか」その努力を怠ってはいなかったか。作品構想のためのデッサンを軽んじてはいなかったか。
「今、描かせてもらうこと」
「今、観てもらうこと」
その気持ちを忘れず、努力と研究を続けていきたい。
黄色い絵の具のこと
吉田瀬七は、この頃黄色い絵の具をよく使う。
黄色を思い浮かべようとすると高い位置にある太陽、ゴッホの描いたひまわりが連想される。
影がなく、明るい色だ。
明るい黄色にそのとき思いついた色を混ぜて、絵を描きたい。
明るく、影のない幸福を感じる色彩で。
三月の個展のこと
三月に仙台のカフェにて個展を控えている。
DMに掲載する予定の作品を撮影したが、まだ良くなりそうな気がする。もう少し加筆してみようか。
今回は展示の風景を前回より明るくしようと思い、レモンイエローの絵の具を使った作品を多く制作している。過去の小作品も展示するつもりである。
良い展示になるように頑張る。
想いのこと
やりたいこと、聞きたいこと、見たいことがたくさんある。体が足りない、という意味を、この頃知ったと思う。
とりあえず、近所の美術館に向かう。少しおしゃれをして、普段はあまり着ない着物を着て、少し動き辛いと思いながらも気分は楽しい。
パステルで描かれた作品は伸び伸びしている。作家ご本人がいたので話を聞く。個展の会場に作家さんがいるときは、出来るだけ話を伺うようにしている。色々な人から色々な話を伺うが、共通していることがある。
自分の作品が、好きだということ。
少し寒くて雲の厚い日に出かけたこと
知人から展覧会の招待券をもらっていたので観に行く。
展示されていたのは工芸品だった。染織には元々関心があったが、硝子や漆も素晴らしい。絵画では表現することが難しいだろう輝きがある。
知人は染織の掛け軸を展示していた。描かれている般若心経を口の中で小さく呟く。小学生の頃、演じた劇の中で般若心経を読経する場面があったので、少しくらいは読める。しかし、意味はよく分からない。
会場から出ると、受け付けの人に「どうでしたか?」と声をかけられる。染織が面白かったと、正直に答えた。
「此処」のこと
今日から、仙台のCafeこもれびにて個展が始まる。
初日なので、在廊する。
絵には言葉が添えられている。完成した絵を見ていると、何となく言葉が浮かんでくる。落ち着いた目で見てみると「独」を意識した言葉が多い。しかし、寂しさを感じさせないように努力しているようだ。
この言葉を、大変褒められる。
絵の中に、言葉がある。
個展のタイトルは「此処」。
当たり前だと、笑ってしまうようなこと
例えば、
今日起きること、今日寝ること。
今日食べること、今日学ぶこと、今日遊ぶこと。
今日朝を迎えて、今日夜に迎えられること。
当たり前のことの、当たり前でないこと。
それを当たり前と受け入れながら、
息をしていることに驚かされる。